此の素晴らしき世界

　さう、そこは天國でした。

　空には巨大な太陽がうかび、眩しい輝きが生きる者たちを暖かく包み込んでゐました。人々は笑顏にあふれ、すべては充ち足りてゐました。
　そこでは、考へうるかぎりのすべての幸福が、形となつて目の前に現れました。何でも願ひごとを叶へて呉れる神樣といふものが、たしかに存在してゐたのです。人々は幸福の神樣を信じ、あらゆる願ひごとが現實となりました。晴天を願ふ者には晴天が、風を願ふ者には風が、雨を願ふ者には雨が、物が腐りカビが生え、植物が枯れ果てやうとも、地面が水につかり、腐爛しはじめた自分の體までもが異臭を放ちはじめたとしても、雨を願ひ續けるかぎり、永遠に雨は降り續いたのです。神樣はどのやうな願ひをも聞き入れ、實現させました。そこでは、永遠の太陽や永遠の月を、永遠の命や永遠の死を得ることさへも許されました。

　そこではすべてが許されました。

　多くの人々は永遠の命を求めました。永遠の命の前では、もう時は必要ありませんでした。十年の遲刻も、百年ぶりの再會も、永遠の時の前では無に等しかつたからです。考へうるかぎりの幸福を手に入れ、考へうるかぎりの不幸を味はひ尽してしまつた者にとつては、幸福も不幸もありませんでした。欲望も次第に消えてゆきました。望む望まないにかかはらず、いつかはすべてが實現されるはずだつたからです。生きることにあきれば死を望むだけでよく、そして望めばいつでも生き返ることができました。何をしやうが、何が起こらうが、人々は何も感じませんでした。すべてが許される世界。ただひたすら、暇つぶし、退屈しのぎに精を出す人々。すべてはキリのない、永遠の繰り返しにすぎませんでした。

　そこではすべてが許されました。

　人々は退屈しのぎに犯罪と呼ばれる遊びを樂しむこともありました。そしてすべてを無關心とともに受け入れました。強盜も誘拐も、他人の命を奪ふことまでもが退屈な遊びだつたのです。どんな罪を犯すことも許され、罪を犯した者を裁くことさへも許されました。永遠の中では、懲役にも、好きな時に生き返ることのできる死刑にも意味はなかつたのです。死刑囚は、自分の意志で死ぬのか、他人の意志で死ぬのかさへわからなくなつてゐましたし、わかることが必要だとも感じなくなつてゐました。すべてが實現され、すべてがいつかは起こりうる永遠の世界の中では、自分の行動も他人の行動も、また、自分の意志であらうが他人の意志であらうが、大して違ひはありませんでした。それが自分自身の思ひなのか、それとも誰かが自分に思はせてゐるのかは、誰にもわからなかつたからです。死刑囚たちは、決まつて斯うつぶやいたものでした。「本當にオレは、あの裁判官の命令で殺されるのだらうか。いや、實はオレ自身が死を望んでゐるのかも知れない。だからこそ神樣が、あの裁判官に死刑を命じさせたのかも知れない。死刑を命じさせたのは、實はオレ自身の思ひなのかも知れない。まあどつちにしろ、大したことぢやない。如何だつていいことだ」と。同時に裁判官は斯う云ひました。「本當に私があの者に死刑を命じたのだらうか。あの者がそれを望んだのではないのか。そしてあの素晴らしい幸福の神が、私を使つて死刑を命じさせたのではないのか。實はさうなのかも知れない。さうではないといふ證據は何處にもないではないか」と。
　とにかくすべてが實現されるのです。自分の意志は他人の意志でもあり、同時に神樣の意志でもありました。誰の意志でもよかつたのです。誰のものでもあり、誰のものでもなかつたのです。とにかく、意志の存在だけが確かでした。人々はそれぞれ自分を神樣だと信じ、目の前に廣がる世界のすべては、自分の意識が創造したものだと信じ込みました。さう信じることによつて、それは現實となつたのです。すべての人々は神樣になりました。たださう信じるだけで十分でした。自分が神樣なのか、それとも神樣に造られた存在なのかは、誰にもわかるすべがなかつたからです。それに、何にならうとも、何も變はりはしませんでした。永遠の時間の中で、變化は消滅してゆきました。すべての行爲は、すでに過去においてなされたことのある行爲にすぎませんでした。そのうへ、永遠の中では、過去も現在も同じことでした。あらゆる物事が、まるで同時に起こつたやうに感じられたのです。

　すべては繰り返しにすぎませんでした。

　繰り返しにあきた一人の神樣が、自分の中の記憶を消すことを思ひつきました。記憶を消すことによつて、何でも叶へて呉れる神樣の存在を忘れ、退屈な、永遠に續く繰り返しの中から迯れることが出來るのではないか、はるか昔もつてゐたはずの感情を取り戻すことが出來るのではないか、と考へたのです。時が流れを止めたその土地では、一人の神樣の意志は同時にすべての神樣の意志でもあり、すべての神樣の意志は同時に一人の神樣の意志でもありました。すべての神樣は、記憶を、過去を消し去りました。神樣たちは、真つ新な、もとの人間に戻りました。しかし無駄でした。失つた記憶を再現するのに、何十億、何百億年かからうとも、永遠の命の前では、どんなに長い時間の經過も無に等しかつたからです。

　すべては繰り返しにすぎませんでした。

　やがて人々は、限りのある命と、そしてすべてを叶へて呉れる神樣の死を願ひました。それもまた、永遠に續く繰り返しの中の、ほんの一事象にすぎないとわかつてゐながら。

　願ひは叶へられました。

　目の前には、今まで何度も見てきたはずの、それでゐて初めてながめる景色が、いつもと同じやうに廣がつてゐました。

　さう、そこは天國でした。